校 歌
白沢中学校校歌 作詞 このちゅうこう 作曲 八木 伝
1 桑波かすむ 高原に むらさき匂う 赤城山
朝に夕べに あおぎつつ 雄々しく強く 望みもて
われらはつねに 学ぶなり
2 うつぶせの森 杉古りて 原野をひらき 溝うがち
村をつくりし 父祖のわざ こずえの風に いまも聞き
われらも日々に 怠たらじ
3 かいこの火影 なつかしく もみじに雪に 美しき
この天然の ふる里に 心をみがき 身を鍛う
われらの幸の うれしさよ
4 おお青空に 胸はりて 郷土のあすを になわんと
文化をめざし 音高く 進む白沢中学ぞ
我等が母校 意気を見よ
応援歌
白沢中学校応援歌について
平成26年2月3日の金子 修校長の記録
1 この記録を残すきっかけとなったこと
(1) 平成25年度卒業生(平成26年3月31日卒業)の卒業記念品の制作
第3学年学年通信第44号「卒業記念品の制作を始めました」より
卒業記念品としてインパクトのあるものをと思い、永きにわたって飾っておけるもの、卒業した生徒たちが中学校を再訪した時、懐かしさがこみ上げるものをと思い「白中応援歌」の額を考えました。(中略)
(2) 制作の過程で 第3学年学年通信第44号より
・・・しかし、作成の過程で1つの問題が起こりました。歌詞の漢字の使われ方が判明しただけでも3通りあったのです。そこで、作詞・作曲した人に直接聞くことができないだろうか、ということになったのです。(以下略)
(3) 作詞者・作曲者についての調べる手立て
中学校に関係する資料が見つからなかったため、白沢町木暮茂振興局長に伺ったところ、 「その作られた経過は全く知らないが、作詞者の江部さんは白沢中の卒業生、作曲者の西形さんは当時の音楽教師であろう。」とのことであった。そこで、学校沿革誌や卒業生台帳、同窓会名簿等をあたり,応援歌について調べ後世に残し伝えることにした。
2 知り得た事実
(1) 学校沿革誌に、「白中応援歌がつくられる」等の記述は見あたらない。
(2) 作詞者・作曲者について
① 作詞者について
現在学校に伝わる「白中応援歌」楽譜や「生徒会誌・杉の実」の目次裏面には、
作詞 江部 正夫とあるので、卒業生台帳、同窓会名簿等をあたる。
江部正夫さんは、本校第14回生・昭和35年度卒業(昭和36年3月31日卒業)であり、千葉県我孫子市在住であることが分かった。
平成25年12月26日夕刻、校長が江部さん宅に電話を入れた。本人から直接を伺うことができた。話をまとめてみると、
ア 卒業記念品に「応援歌の額」を作ってくれるというのはたいへんにうれしいことである。応援歌のことはすっかり忘れていて、『新しい応援歌ができたので、古いのは捨てたい。』と言われるのではないかと思った。
1年に1度くらい白沢町に帰るが、沼田市との合併もあり、白沢中学校も変わって当たり前と思っていたので・・・。妹から白沢のことを聞くことがあるが、応援歌ついては最近は、話をしたことがない。
イ 白沢中学校35年度卒業生であること、応援歌は中学3年生の時に自分が作詞をしたこと、作曲は当時の音楽教員の西形先生がおこなったことは間違いない。
ウ 応援歌作成の経過等について、以下のようだったと記憶している。
・当時、白沢中学校には校歌がなかった。けっしてそれは珍しいことではなく、ない学校の方が多かったのではないか?
・「白中生の歌」「生徒会の歌」はあった。これは文化部の歌。運動部の歌はなく、中体連大会や練習試合の時の応援は、校歌(と思われる歌)を歌っていた学校もあったが、ほとんど手拍子の応援であった。
・中学3年生の時、3年B組であったが、学級担任の梼木和子先生から、みんなで応援するときの歌を作るので歌詞を考えてほしいということを言われ、友だちに相談などしながら自分がまとめたと思う。
在学中の頃は、バレー、庭球(ソフトテニス)などが強かったと思う。
・この頃は運動部のめざましい活躍があり、また、昭和33年には、白沢中同窓会東京支部結成の動きもあったことから、 「校歌」あるいは「応援歌?」を作ろうという機運が盛り上がったと思われる。
・江部さんは(中学3年生だった)昭和35年度の生徒会長であり、教員が江部さんに応援歌作成の声をかけたのも理解ができる。
エ 江部さんが在学の頃の白沢中学校の運動部の成績等については、学校沿革誌には以下の記録が残っている
中体連参加競技大会
昭和34年度・・・男子バレー第2位
男子庭球県大会出場
男子卓球2位個人優勝
昭和35年度・・・庭球女子部代表とし県準々決勝
排球部代表 ソフト第3位 サッカー第3位
と云う様に成績を上げたとある。
オ なお、当時の白沢中学校の愛唱歌として資料として見つかるのは、「生徒会の歌」と「白中生の歌」である。
「杉の実・第5号 昭和33年度」に、『文化部の「生徒会の歌 白中生の歌」発表』という文章があり、それ以前の「杉の実」には掲載されていないので、この2つの歌はこの年(昭和33年度)に作られたと思われる。
生徒会の歌(詞 中村 優子 曲 熊沢 修二)
白中生の歌(詞 桑原みき子 曲 中村喜代子) とある。
カ 昭和35年度に「応援歌」を作ったという江部さんの話を裏付けるものとして、「杉の実・第7号 昭和35年」目次には、
白中生の歌・・・・・・4(ページ)
生徒会の歌・・・・・・5(ページ)
白中応援歌・・・・・・6(ページ)とあるが、
「杉の実・第7号」には生徒会の歌と白中応援歌が欠落?している。
「杉の実・第8号」からは3つの歌が掲載されている。
② 作曲者について
学校に伝わる「白中応援歌」楽譜には、作曲 西形喜美江 とあり、「生徒会誌・杉の実」には、作曲 西形喜美代とある。
学校沿革誌や当時の教員であった吉澤登美雄先生(高平)の話から、作曲は西形喜美代先生であり、「江」は間違いであることが分かった。
昭和35年4月1日に白沢中就任、3年間白沢中学校音楽教師として、勤務。すでに他界されており、当時の状況などを聞くことができないのは残念である。
(3) 歌詞について
1 (2)で「歌詞の漢字の使われ方が判明しただけでも3通りあったので」
(額制作過程で、漢字に直して良いのか、「杉の実」に残っている通り、ひらがながよいか、戸惑っている。3箇所くらいあるという意味)ずっと音楽教員に引き継がれてきた歌詞と曲で残したいという話をしたところ、
江部さんは、
ア 歌い継がれているだけで結構です。額に残してもらえるのはありがたいので、額にしたときに分かりやすいので良いです。
イ 歌詞は漢字とひらがなをどう使ったかははっきりしない。指摘された
・苦とうの練習のりこえて → 苦闘
・若い血潮をもやしつつ → 燃やしつつ
・日頃はげんだその意志で → 励んだ
で良いです。
ウ そのほか、
・「吾ら」は「我ら」で
・「ほこり」は誇りで